中村尚司の文章から

『人びとのアジア』より

  

 欧米諸国では、身分登録の単位が「イエ(家族)」ではなく個人である。それぞれの事件発生地において、一人ひとりに出生証書、婚姻証書、死亡証書などが作成される。フランスの家族手帳やドイツの家族簿にも、親族的身分関係が世代をこえて登記される。「戸籍」の観念はない。

 戸籍という言葉自体は日本固有の発明ではなく、古代中国からの輸入語である。しかし、正倉院に保管されている戸籍は、後世の宗門人別改帳や住民基本台帳に継受されている居住地登録の制度であり、明治の戸籍制度とは異なる。

 日本近代の発明である戸籍制度の特徴は、「イエ」単位の身分関係管理と労働市場の発展との両立にある。移動の自由や職業選択の自由は、工業化、都市化、軍事化とともに、明治政府に対する時代の要求であった。

 かくして、居住地と本籍地の完全分離という、世界に比類をみない制度が発明されたのである。東京都千代田区一丁目一番地に本籍を置く「イエ」が続出しても、何の支障もない制度が完成した。英語やフランス語だけでなく、生まれたところや住んだところと無縁な「本籍地」という言葉を過不足なく翻訳できるアジア諸国の言葉がほとんど存在しないのは、このような事情からである。

 

 

中村尚司『人びとのアジア』(岩波書店、1994年)184~185ページ。

 

 

 

 

人びとのアジア―民際学の視座から (岩波新書)

人びとのアジア―民際学の視座から (岩波新書)