田宮俊作の文章から

田宮模型の仕事』より

 

 今回のミニ四駆ブームで私が学んだことがひとつあります。いまの子どもたちは工作のために工具を使う、といった機会がまったくといっていいほどなくなってしまいました。ナイフで鉛筆を削ることも、板に釘を打ちつけることも経験しないまま、大人になってしまうのが最近の世の中です。ところが誤解してはいけないのは、子どもたちはそういったことが嫌いではないということです。ミニ四駆の会場で目を輝かせながら、さまざまな工具を使ってキットを改造している子どもたちの姿を私は忘れることができません。工具を使って、自分の手で何かを作り上げていく、そういった機会を大人たちが奪ってきたのではないでしょうか。

 

 

田宮俊作『田宮模型の仕事』(文藝春秋、2000年)308ページ。 

 

 

 

 

田宮模型の仕事 (文春文庫)

田宮模型の仕事 (文春文庫)

 

 

河合隼雄の文章から

『日本人とアイデンティティ――心理療法家の着想』より

 

 われわれが主体的にこの世に生きてゆこうとするかぎり、われわれは自分自身をそのなかに入れこんだ体系をもたねばならない。自然科学の知は確かに有用であり、何らそれを否定する必要はないが、われわれはそれをイデオロギーの代替品とするような錯覚をおこすのではなく、自分という主体をも包みこみ、自分と世界との有機的なつながりを与えてくれるもの――筆者はそれをコスモロジーだと思うのだが――を見出すように努めねばならない。

 

 

河合隼雄『日本人とアイデンティティ――心理療法家の着想』(講談社、1995年)210ページ。

 

 

 

 

 

江村洋の文章から

『ハプスブルグ家』より

 

 だがハプスブルグ家では、馬鹿正直なほどに約束を守ることが伝統的だった。カールの祖父マクシミリアン帝など典型的な例だが、誓約を結んだ同盟は必ず遵守するというのが、同家の君主たちに共通した特徴といえる。それははるか後代のマリア・テレジア女帝やフランツ・ヨーゼフ帝に至っても変わることがない。その結果、彼らはおうおうにして<お人よし>のレッテルをはられ、時として他の王侯らの笑い者になる。それにもかかわらずハプスブルグ家では、約束を反故にするのは矜持が許さないとばかりに、他国との信義を誠実に守るのが常だった。その結果としてこの権門は他のいかなる王朝にもまして長続きしたわけだから、<正直者に幸あり>ということにもなるだろうか。

 

 

江村洋『ハプスブルグ家』(講談社、1990年)89~90ページ。

 

 

 

 

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

 

 

吉野源三郎の文章から

『君たちはどう生きるか』より

 

――君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。

 

 

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波書店、1982年)195ページ。

 

 

 

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

柘植久慶の文章から

『歴史を動かした「独裁者」 「強大な権力」はいかに生まれ、いかに崩壊したか』より

 

 アントニウスはオクタウィウスの姉ーーオクタウィアを妻にしていたが、その離婚によって亀裂が決定的なものとなった。すなわちアントニウスがエジプト女王クレオパトラに籠絡され、妻と同時にローマを捨てたからであった。

 紀元前三一年のアクティウムの海戦は、両国の艦隊が互角に戦っていたものの、途中でクレオパトラの軍船が戦場を離脱、続いてアントニウスも彼女を追ったため、エジプト艦隊が総崩れになったのである。

 

 

柘植久慶『歴史を動かした「独裁者」 「強大な権力」はいかに生まれ、いかに崩壊したか』(PHP研究所、2003年)40ページ。

 

 

 

 

 

養老孟司・竹村公太郎の文章から

『本質を見抜く力ーー環境・食料・エネルギー』より

 

竹村 文明を持続していくには国土保全が必要です。その国土保全環境保全に通じます。きれいごとの環境保全ではなく生きるか死ぬかの環境保全なのです。

養老 我々の生活の問題ですね、これは。環境問題は「保護はするが利用はしない」ということが前提になっています。いわゆる環境派は人間が手をつけないほどいいという考えなのです。そうではありません。人間と自然とには行ったり来たりの関係があるのです。自然を保全しながら手をつけていくということを、みんなでやり直さないといけません。江戸時代にはそれをずっとやっていたわけだから。

 

 

養老孟司・竹村公太郎『本質を見抜く力ーー環境・食料・エネルギー』(PHP研究所、2008年)153ページ。

 

 

 

 

本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546)

本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546)

 

 

近正宏光の文章から

『コメの嘘と真実 新規就農者が見た、とんでもない世界!』より

 

「日本の食料自給率が下がってしまう」

 この主張は農林水産省が発表した「食料自給率39%(平成23年度)」という数値が拠り所となっています。

 そもそも、食料自給率の算出法には「カロリーベース」と「生産額ベース」があり、世界の主流は生産額ベースによるものです。

 しかしなぜか日本だけは世界的にも珍しいカロリーベースの算出法を公式に採用しています。

 ご存じの方も多いと思いますが、一応ここでカロリーベースと生産額ベースの違いを説明しておきましょう。

 カロリーベースとは「国民1人1日当たりの国内生産カロリー÷国民1人1日当たりの供給カロリー」で導き出されています。

 (中略)

 もう一方の生産額ベースは、食物の価格がキーになっています。国内で消費される額のどのくらいを国内で作っているか。それを「国内の食料総生産額÷国内で消費する食料の総生産額」で割り出しています。

 

 農水省が公式に発表しているのは前者のカロリーベースによるもので、先述したように日本の食料自給率は39%とされています。

 ところが生産額ベースでの食料自給率は66%にもなり、カロリーベースと比べるとかなりの開きがあります。

 牧畜の盛んなアメリア(ママ)やオーストラリアのように、高カロリーの農産物が多ければカロリーベースによる食料自給率が必然的に高くなります。

 ところが日本はアメリカやオーストラリアほど牧畜が盛んではありません。さらに肉牛や鶏卵にしても、輸入飼料によって生産されたものは自給とみなされないのです。野菜やコメの生産の多い日本の自給率をカロリーベースで見れば、どうしたって低くなってしまう理由がここにあります。

 

 

近正宏光『コメの嘘と真実 新規就農者が見た、とんでもない世界!』(角川マガジンズ、2013年)54~56ページ。